中臣鎌足(藤原鎌足)は何者か?
中臣鎌足の素性は中々分かりません。
もしかすると、聖徳太子と同じくらい謎の多い人物かもしれません。
中臣鎌足が表舞台に登場するのは、
白村江の戦
からです。
百済の援軍として中大兄皇子(後の天智天皇)と一緒に中臣鎌足は出兵しました。
しかし、百済は敗戦し滅亡しました。
その際、百済の王族を連れて帰国したという説もあります。
もっと重要なのは、負けて帰って来たのに死刑にならなかったことです。
今では倫理的問題がありますが、当時は戦犯を問われたようです。
中臣鎌足は内臣になっていきます。
敗戦の責任を取り返すように命じられたのでしょうか?
ここから中臣鎌足は表舞台で活躍します。
から
が始まります。
天皇家とお付き合いがあるのに(しかも親友)史実があまりないという
「中臣氏」とは?
八咫烏のような存在だったのでしょうか?
それとも、一説で言われていますが、
「中臣」は「仲介」の意味とも取れるようです。
しかし、天皇家は何代かかけて百済の血脈を排除していってます。
中臣鎌足の息子、藤原不比等は摂関というより「黒幕」的存在になっています。
良い意味では「支え」
悪い言い方をすれば「牛耳って」きています。
藤原氏の原点はここだと思います。
白村江の戦になぜ出兵したのか?
敗戦して帰国してもお咎めなし?
これは現代の朝鮮半島と日本との関係において、
日本人が学校で教わっていない、理解していない部分だと思います。
満州のこともそうです。
あっ、ちょっと脱線しましたが…
私はこの件に関して「日ユ同祖論」を用いると理解しやすいと考えています。
北イスラエル王国の「失われた十支族」は朝鮮半島を経由して日本に辿り着いたのではないか?と。
そして、元は双子の支族と考えたら、援軍に行くのも納得出来ます。
そう「エフライム族」と「マナセ族」です。
白村江の戦で敗戦はしましたが、天皇家(エフライム族)が百済の王族(マナセ族)を連れて帰国したとすれば、戦犯を問われ死刑にならないのも理解出来ます。
私の祖先の謎はここ辺にありそうです。
また、書いていきます。よろしくお願いします。